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柴山の加工業は、昭和18年に「兵庫県合同缶詰統制株式会社」が柴山に進出したのがはじまりとされています。その後「柴山港水産食品組合」が組織され、缶詰や練り製品(蒲鉾やちくわなど)を中心に発展してきました。

 

昭和25年に統制経済(戦後の食糧不足により公正な配給などを目的として、価格などに制限が設けられた)が解除されると、業績が悪化し、昭和27年「柴山港水産食品組合」は解散しました。

 

解散をきっかけに、独立して加工・販売を経営する工場が続々と誕生し、缶詰、練り製品に留まらず、エビ、カニなどの加工も行うようになりました。 資源が豊富にあり、漁に出る船も多かった昭和30年代後半から昭和40年代中頃にかけて好景気が続き、漁獲量が多いことから、朝まで作業をすることも少なくありませんでした。その一方で、社長は仕事を下の者に任せて遊びに行くこともあったそうで、それでも儲かっていた時代でした。

 

しかしそんな時代も長くは続かず、資源の減少や消費の低迷などにより、原料の輸入や工場の廃業・合併が余儀なくされました。 近年の不景気はもちろん、円安による輸入価格への影響なども心配されますが、次の世代の若い者が後を継ぎ、若い人を採用して水産加工業の活性化に取組んでいます。

【情報提供】

今西食品 取締役

今西 弘

1530(亨禄3)
室町時代後期
上計村に移住し来れる寺川半右衛門・佐治兵衛。かれい延縄漁業を伝授
(漁業の始まり)
1870(明治3) 沖浦村に沖手繰網はじまる。
帆走による漁業で能率アップ。ずわい蟹も取り始め、漁業がお金になりはじめる。多量水揚げが可能になったため、地元で競売が出来るようになった。仲買人が鮮魚に簡単な手を加えることにより商品価値を高める加工手段を用い始めた。
1871(明治4) 廃藩置県。最終的に但馬海岸は豊岡県へ。
1889(明治22) 町村制の施行。相谷~沖浦七村を以って口佐津村へ。
1911(明治44) 山陰鉄道東線香住まで開通。佐津駅開駅。翌年東西線ドッキング。京都出雲間開通。
鉄道開通によってこれまで豊岡市場へ搬送していた流通ルートは、直接京都・大阪の大消費地市場に出荷するようになる。魚価も向上、産地商人の数も増加、加工業兼仲買商の地歩を築く。 
柴山港の漁業は隆昌に向い、手繰網漁業は最盛期を迎えた。
1915(大正4) 但馬におけるはじめての動力付沖手繰船佐津丸1号進水。1918~1921に但馬全手繰船の動力化完了の端緒をなす。このころから徐々に動力化へ。
1941(昭和16) 第二次世界大戦 鮮魚介出荷統制規則により、指定陸揚地となり組合直営出荷事業開始。
1944(昭和19) 苛烈なる戦局に対応、国策強力機関としての性格を強めるため、口佐津村漁業協同組合は解散。口佐津村漁業会が設立される。加工業者も抱含される。
傘下加工業者企業合同して漁業会加工部となる。
漁船の徴傭、石油規制強化による出漁日数制約による漁獲減、他地方からの移入途絶などによる悪条件により原料難で企業合同となった。小売行商人も漁業会の機構が変わってからは個人経営は困難になった。
1945(昭和20) 終戦
1947(昭和22) いち早く民需に切りかえるため、漁業会と兵庫県合同缶詰工業株式会社とで「柴山港水産食品組合」を組織し、練り製品、缶詰の製造業務を事実上前年より開始。
1949(昭和24) 柴山港漁業協同組合設立認可。柴山港漁業会解散して、柴山港漁業協同組合誕生。
1950(昭和25) 魚の価格統制解除。8年7ヶ月ぶりに競売による受託販売制に戻る。
29事業体が自由営業者として一斉に加工業及びその製品販売業を自営したのだが、価格統制のはずれた市場競争は容易でなく10年を待たずに廃業、統合していく。経営に行き詰まりを記して廃業寸前に追いこまれた事業体も、加工業者減少防止のために漁協の行った旧債棚上げの寛大措置により営業継続を図ったところも少なくなかった。
1955(昭和30) 町村合併。香住町誕生す。
1972(昭和47) 柴山港漁協地方卸売市場を開設。
1983(昭和58) 柴山加工協新事務所を建設。
加工業者は戦前は魚商組合といったり仲買組合と呼んで統廃合や企業合同を重ね、曲がりなりにも一つの組織として受け継がれ戦中戦後の混乱期を乗りきってきた。しかし、より所となる事務所もなく、専任の職員もなく漁協職員に代行してもらっている状態であった。事務所建設で「柴山港水産物加工組合」の新看板を掲げて、主任職員1名、補助職員1名を置いてようやく再生して柴山の加工組合が出発した。